昭和54年02月06日 朝の御理解



 御理解 第65節
 『日柄方位は見るにおよばぬ。普請作事は、使い勝手のよいのが、よい家相じゃ。よい日柄というは、空に雲のない、ほんぞらぬくい、自分に都合のよい日が、よい日柄じゃ。いかに暦を見て天赦日じゃと言うても、雨風が強うては、今日は不祥のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え。』

 人間がいよいよ幸せになりたい。それに様々な難儀なことが起こってくる。何とかしてその難儀から逃れたい。いわゆる苦労のない生き方、そういう手立てはないものかと、いろいろにまあ勉強したり、苦労して、いうならば日柄をつくり、方位をつくり。又は名前で人間の運勢が決まる。いうなら、幸にも不幸にもなれるというようなものまで人間がつくりあげてきた。ね。その人間の知恵で幸せになろうとする手立てが、そういう日柄とか方位とかなんです。ですからまんざら嘘じゃなさそうなんです。
 ところが金光様のご信心をさして頂いて分からして頂くことは、人間の幸せというのはそういうもんじゃない。ね。人間の幸せというものはもう心次第だ。ね。それを教祖は「和賀心」と。又は「此方の道は喜びで開けた道だから、喜びでは苦労はさせん」と。ね。ですから私共がどうしてもその、そういう人間の才覚で幸せになろう、ね、例えば工面で儲け出そう工面で残そう。言った様なことは本当の事じゃない。
 それこそ、神様のおかげでいつの間にか健康になり、神様のおかげでいつの間にか財産ができ、人間ができ身代ができる。ね。そこに有り難い幸せを感ずると言う様な幸せ。いうならば本当の幸せ。そこには例えばここにも、なら風が吹いたり、雨が降ったりしたのではまぁ、不祥のお天気というじゃないかと。空に雲のない、ほんぞらぬくい日が、また人間に都合のよい日がよい日柄じゃと、というふうに解釈をしておられ、同時に「日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え」と教えておられる。
 私共の上に、例えば病気やら災難がいろいろ、例えばあると致します。それでは人間は本当は幸せじゃないじゃないかと。お金に困る。ね。体が苦しい。ならそういうことでは人間は幸せはない。ほんぞらぬくい、いうならば暑くもなからなきゃ寒くもない。痛くもなからなきゃ痒くもない。健康で、ね、おるならばそれが一番のおかげじゃと。と例えば健康の上のことだったらそういうふうに、人間が難儀と思っておる難儀の中から、そういうふうにね、それではほんとなことじゃない。
 けれども最後にあります「日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え」とこう仰る。なら例えば私共が、風があっても雨があっても、いうなら体が悪くても、いうならばお金に不自由しておっても、ね、いろんな難儀な問題を抱えておっても、だからお生かしのおかげを頂いておるということだけで有難いことだぞ、とこう教えておられるのですよね。そこでその自由無碍と申しますかね。自由自在に降ったら降ったで有難い。
 照ったら照ったでお礼の言えれる心の状態をつくることが、いわば信心だということをお互いが分からにゃいけんのです。ね。人間がなんとか幸せになりたい。というなら、人間の才覚で日柄とか方位とか、ね、まぁいろいろな、こういう星のもとに生まれた人は、こういう難儀災難に遭うと言った様な事を、まぁいうならば発見して、ね、そういう人は、星が(凶?)してこういうふうなことをすればその、幸せになれるんだ、と言う様な、いうならひとつの学問のようなものを作り上げた。
 人間が幸せになることのために、やっぱできたのです。ところが教祖は、そういうものを全部無視しておられる。ね。そして心一つで幸せになれる道を説かれたんです。ね。ですから、どうしてもその心一つで、それでなら、まぁぎりぎりのところ、例えば難儀を、お金が足りないとか、病気をしておるとかと。いろんな人間関係で苦しんでおるとかと言う様な事でも、ね、そういうことがあっては人間は幸せじゃないんだと言いながらです、ね、例えばもう「日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え」と。
 例えば病気をしとっても、お金が足りんでも、難儀があっておっても、ね、ほんとのいうならばことを分かったら、ご神意を分かったら、お生かしのおかげを頂いておるというだけでも有り難いことなんです。というていうなら難儀、災難と言った様な人間が困る、痛い痒いの中にでも、ね、お生かしのおかげを頂いておるということが有り難いことだと教えながら、そして何故そういう痛い痒い思いをしなければならないかということを、(つまびらかにしておられるですね。
 いわゆる、御理解3節にあるように、ね。「天地に対して無礼いたし、前々のめぐりで難を受けおる。」と説きながら、その難そのものも今度は、おかげだと説いとるでしょうが。教祖は。ね。難あって喜べとか、難はみかげというふうに説いてある。ね。降るから照るから、ね、また風が吹くから、そういう時には、まぁいうならば、「不祥のお天気じゃというではないか。」という、「人間が、病気災難があったんじゃ、幸せじゃないじゃないか」と。ね。
 ほんぞらぬくい、何もない平穏無事という時が一番まあ有り難いことだと、いうなら説きながら、最後には「降っても照っても、たとえ病気災難があってもそれは日柄からきたのじゃないぞ、方位から来たのではないぞ。心次第で人間は幸せになっていくぞ」と心の使い方を教えておられる。そして究極、和賀心に導いていかれる働きが教えなんです。だからどうしても、教えと心というものが、いつも、ね。一緒にあらなければならない。いうならば心に教えを頂き続けていかなければならない。
 そしてなら、ご神意の深さを分からして、降ろうが照ろうが、不祥のお天気じゃと言いながら、そしたらその、「不祥のお天気じゃない、日のお照らしのある日に、悪い良いはないと思え。」と言う様に、人間がお生かしの、おかげを頂いておる、ということだけでも有り難いのぞ。熱があるの、腹が痛いのと言うてるのも、それは生きとるしるしじゃないかと説かれるえわけです。ね。そしてなら痛いならば、苦しいならば、その苦しいもとを探求する。ね。
 そして成程、こういう心掛けでは、痛い思いをしなければならないことが分かって、始めてそれが神愛だと気付かせて頂いて、ね、御神願有り難しと言う様な事にも、ね、なってくるわけであります。昨日、壮年会で皆さん、有り難い発表をしておられましたが、福岡の松岡さんが、昨日、夕べのことね。昨日の朝の寒修行の明けで、皆さんが体験発表を聞かせて頂いて感心した。とりわけ、佐田先生が発表された、もうほんとにその、どこに行ってもそこに神様を見る。
 どこへ行っても、例えば便所に行っても拝まずにはおられない。ね。どんな場合でも有り難い、という話を聞かせて頂いて、自分がまだ、いつもかつもあんな有り難いという気持ちになったことがないが、まぁおかげを頂いて、神様見て下さい。ね。唐人うどんが今、椅子が一つも空いとらん位に、お客さんでいっぱいで、断らんならんごたる時だけは、「ほんとに神様見て下さい。こげなおかげを頂いております。有り難いことです」というて、心からお礼が言えれる。心から有り難いとこう言われる。
 けれども、あぁいう喜びというのは、いうならば「降っても照っても有り難い」というような心はどうしても湧かんが、あれはどういうところから頂けるでしょうか。という話をされますからね。あぁ壮年会長さん、壮年部の、壮年会の会長さんがこのくらいのことじゃからなと私はほんと、もう悲しいぐらいに思いましたけれども、実際はそういう人が多いんじゃないでしょうか。赤裸々に言うたらそういうことである。ね。
 いうならば、なら「今日はひとつも商いがなかね」という時には、イライラしたりね、何とはなしに有り難いも何もない。ね。むつ屋の前の信司郎さんのお母さん達も始めそうであったけれども、だんだんおかげを頂いて、もう売れる時には有り難いけれども、売れん時にも、又は他所の店が繁盛しておる時でも、お礼が言えれるようになった。「神様、今日はお客さんが少ないですから、日頃整理が出来ない所が整理ができます。おかげを頂いて今日はゆっくりさして頂きます。というてお礼を申し上げます。」
 と言う様な、まぁ大体はそう言う様に教導されるのが合楽ですよ。ね。だから問題は、それが芯からかどうかということは分からんのです。昨日は松岡さんは、赤裸々にそのことを言うておられました。まぁそれを取次ぎをしていた私としては、なんかがっかりするような気持ちがするんですけれども、果してそんならば、降っても照っても有り難いんだ。そこになら痛い痒いがあっても、ほんとに有り難いんだと言う様な心をほんとに開いておる人が、なら合楽でどのくらいあるだろうかと。
 そういうおかげを頂かなければ、ね、いうならば、いかに合楽理念を麗々しゅう書いても語っても、いうならば「何々は合楽理念をもってする他はない」と、合楽理念をもって例えば商売する他はないと言うならばです、必ず合楽理念をもってすりゃ「売れた売れた」という時ばかりではない、その反対の時でも有り難くなれれるように説いてあるのが合楽理念です。ね。してみると、合楽でこう言うてまぁ昨日、久しぶりに秋永先生が壮年会に出ておりましたから、話したことでしたけれども。
 どういう計算が間違い、間違や、合楽日本一のごたるふうになるじゃろうか。この頃先生が話しておりましたがね。日本で北九州の信徒会が一番だと。北九州の信徒会では築水地区が一番だと。築水地区では合楽が一番だちゅうと日本一になるんです。どげん計算したっちゃ、そげん以上になるんです。そればってん、実際日本一じゃない事実があるから、これはどこに計算が間違や日本一になるかと、まぁ言う位にならおかげを頂いておるというてもその内容が、なら合楽理念にあるからだというならばです、ね。
 その合楽理念をほんとに分からしてもろうて、行じさしてもろうて、降っても有り難い照っても有り難い。ただほんぞらぬくい、雲のない日だけが有り難いのじゃない。いつも日のお照らしなさってあるのが有り難いと分からせて頂くところまでいかなければね、合楽でこうしておかげを頂いておるとは言えんのです。
 今度あの、古川達がちょうど一週間ばかり、あちらへ帰って、今度の学院行きのことで、おかげを頂いて、それから関係の、親戚の教会回りもさして頂いたりして、もう大変にもう、それこそ古川家一門の方達が、もう大変な喜びであったと、いうことをまぁ聞かせて頂いたんですけれども。もう改めて、まだ自分は合楽の、まぁさわりのようなところをところどころ言う。
 もうそれにパァッと、皆がその、今まで合楽に対する見方というものが、何か妙な見方をしておったのがその、あの人達の信心が、ある意味で目覚しく変わっていくもんですから、話を聞いて、もうそれこそびっくりして、「まるきり教祖様のごたる」と言うて、まあ言われたということです。ね。それが事実であるとするなら、まるきり教祖様じゃないかとその、言われたということですがですね。
 昨日もその話の中に、これはあの学院での事だそうですけれども、教祖様の書き残されておる物の中に、この「合楽」というのがあるそうです。始めて発見したんです。ね。この「合楽教会」の「合楽」なんです。ね。この方の信心は、神人という信心じゃと。神と人、神と人とが、ね、その楽しみ合う信心じゃと言う事を説いておられる、と言う事を聞かせて頂いて、こらもう本当に大変な事だなとやっぱし思います。
 だからそういう、なら合楽にご縁を頂いておって、合楽の精神が分かる。神様と喜び合えれる世界から、生みなされてくるおかげを頂けるようにならなければ、ただ繁盛した。こげん繁盛しよります。神様も喜んで下さい。繁盛しない時には、クゥッとすると言った様なことではです、ね、いわば合楽で、ご縁を頂いておる値打ちはない、ということになるのです。ね。もうおかげを頂きましてね。何と言うても。
 人間の才覚をもって幸せになろうと言う様な思いを捨て切って、神様のおかげを頂かなければ、お金も残らん、幸せにもなれない。ね。「健康管理も、いうなら、商売も百姓も、合楽理念をもってする他はない。」という信心を、いよいよ身に付けなければならない。そして例えば、そこに痛い痒いがあったにしても、それは雲があっても風があっても、雨が降っておっても、やはり「日のお照らしなさる日に」という天地の親神様の働きを受けておるということ。そのことが有り難いのだと。
 おかげであると言う事を分からして頂いて、松岡さんの言葉を、これは松岡さんだけの事じゃない。「私もやっぱそげん」と、私は胸に手を置いてみて思う人が沢山ありゃせんでしょうか「ほんなこてあげん有り難かっちゃろうか」と疑わしゅうなる。「どうすりゃそげん、なら有り難いじゃろうか」とね。いうふうに、例えば感じる人があるとするならば、結局はただ御利益だけが有り難いのであって。
信心が有り難いのでないことになっておる自分であることを、まず分からしてもろうて。いよいよ信心が有り難いというおかげを頂かなければならんと。今日は「日柄方位は見るにおよばぬ」と。ね。けれども、人間として幸せになりたいというのは、みんな同じだと。なんとか災難が除けられんだろうか。なんとか運命が変わって、良い運命になりたいというような願いは人間誰しもが持っておる。ね。
 そこからできたのが、いうならば日柄方位的なものだということ。ね。それをなら心で幸せになろうというのが、教祖金光大神の信心だということになるのです。ね。「心一つで幸せになって行こう」という手立てが金光教の教えだということになるのです。だから、どうしても、その自分の心にです、教えがね、行き渡って入ってこなければ、金光教によって助かっておるということは言えんことになります。
 してみるとなら又人間の才覚で、いうならば日柄方位を見ながら名前を変えたり、家を建てるのに、いうなら家相を見て、ね、結婚をするなら、好度吉日を選んで、と言う様な生き方をした方がよいということになるのです。嘘じゃないということです。ね。だから、信心さして頂く者は、どこまでも、だから「心一つで幸せになっていこう」という、もう徹底した生き方を、この今日は65節から聞いて頂きました。
   どうぞ。